筒井康隆氏92歳

私の父親より1年年長。

女性自身 シリーズ人間より

【前編】筒井康隆(92)転倒で頸椎損傷し夫婦で老人ホーム入居…お見合い30回で出会った「82歳妻との半生」

日本SF界の先駆者のひとりとして、そして他に類を見ない新しい表現手法の開拓者として文学史に名前を刻む筒井康隆。何ものにも忖度せず、書きたいことを書き続け、“断筆”も経験した作家は、いま老人ホームで妻と2人きりの穏やかな生活を送っているという。だが、創作意欲はまったく衰えていないようで──。

神戸の中心街から電車で30分、明石海峡に面した垂水駅へ。さらに車で15分。到着したのは神戸異人館風の住宅型有料老人ホームだ。ホテルのような高級感漂うフロントから2階のパーティルームへと進むと、車いすに乗った作家の筒井康隆さん(92)が現れた。

豊かなグレーの髪を後ろに流し、ストライプのワイシャツに三つ揃いのスーツ、ベストからは日本藝術院会員の懐中時計の鎖がチラリと見えるダンディな装い。

「シカゴ時代のギャングじゃありませんが、昔のファッションを守らなきゃいけないと思っているんですよ」

筒井さんは1965年に初の作品集『東海道戦争』を出版。その後、『時をかける少女』(1967年)、「七瀬三部作」(1972~1977年)、『夢の木坂分岐点』(1987年)、『文学部唯野教授』(1990年)、『パプリカ』(1993年)、『敵』(1998年)、『モナドの領域』(2015年)など代表作は枚挙にいとまがない。そして、近著には『筒井康隆自伝』(文藝春秋)がある。

「文学界におるわけなんですが、その人生を振り返りたい思いがあったんです。昔、『記憶の断片』というエッセイを書いたんですけど、断片的ではなく、ひとつながりの自伝を書いてみようとして『文學界』(文藝春秋)で連載しました。

初回は原稿用紙30枚を一挙に掲載しましたが、完結するまで書けないかもしれないという思いはありました。当時は89歳で、心臓の血管の手術をしたばかりということもあって、健康に自信がなくなっていたのかもしれません」

追い打ちをかけるように、連載中の2024年には転倒で頸椎を損傷し、病院でのリハビリを経て、夫婦で高齢者施設に入居した。

だが悲劇も作品のネタとばかりに、包み隠さず原稿に落とし込むのは作家の性。昨年10月、自伝出版にこぎ着けた。

長きにわたる作家生活に寄り添ってきたのが妻の光子さん(82)。常に行動を共にし、新幹線でも隣に座れず、通路を挟んだ席になると、残念に思うほど。そんな愛妻家の筒井さんが、夫婦で乗り越えてきた作家人生を振り返った。

■喜劇役者を夢見て日活の試験を受験

「小さいとき、父が園長を務めていた天王寺動物園に連れて行ってもらって、その帰りにエノケン(榎本健一)の映画『孫悟空』を見たのが、最初の“文化への目覚め”ですかね」

こう語る筒井康隆さんは、1934年、大阪市で生まれた。後に、弟が3人生まれ、4人兄弟の長男に。読書を好み、父からルビの少ない弓館小鰐(ゆだて・しょうがく)版の『西遊記』を読んでみろと言われたとき、わざと「色に迷う八戒」という章のタイトルを読んで、うろたえさせたりした。

太平洋戦争が始まる1941年に国民学校に入学。このころ、友人宅で江戸川乱歩の作品に出合った。

「最初は『少年探偵団』や『怪人二十面相』ですね。乱歩の作品の挿絵はものすごく怖くて、衝撃がありました。作家になってから読書体験を新聞連載しているときにこのことを書いたら、そんな怖い挿絵はないと言われて……。そんなわけないとさらに探してもらったら、取り寄せた当時の版に、やっぱりありました」

終戦翌年、小学6年生に進級したときには体育以外はすべて「優」。市役所の教育委員会で受けた知能テストも高得点で、優秀な生徒を集めた特別教室で学ぶことになった。

「しかし、これは疑問でした。やったのは中学の先取り学習。これでは中学に行ったら退屈するだろうなと思いました」

案の定、中学に進学すると学校をサボり始め、映画ざんまい。しかし、多くの映画を見たことは、作家としての糧となった。

「映画館は、父親の本や母親の着物を売り飛ばした金で通っていました。『青空書房』という露店の古本屋に『親が病気だ』と嘘をついて持ち込むと、同情して高く買ってくれたんです」

さまざまな映画作品に触発され、中学2年で演劇部に所属。『手をつなぐ子ら』の先生役で主演。

「高校でも演劇は続けました。2年から部長になって、前からやりたかった喜劇をやるようになった。笑わせて学校一の人気者になりましたよ。もちろんシリアスなものもやりました」

いい演技のコツは、どんな芝居でも心のなかでは冷静でいること。自分を客観視しながら演じるのが筒井流だ。

「小説でも、作者が涙をボロボロ流して書いた小説なんて、ロクなもんじゃありません。冷静に、泣かせるための工夫をすることが大事なんです。演じることと、小説を書くことには、通じるところがありますね」

同志社大学文学部美学芸術学科に進学。大学でも演劇を続け、劇団「青猫座」に入団。宝塚歌劇の演出と脚本を手がけていた中西武夫氏に『廿日鼠と人間』の主役を任された。関西の演劇界では知られる存在だったという。

「喜劇役者になることが夢で、日活の試験も受けに上京したんです。推薦文がいるだろうと中西先生に書いてもらいましたが落ちてしまいましたね。日活が、それまでの文芸路線から小林旭のような活劇路線に変わったんです」

これを機に演劇から離れ、大学卒業後は社会人となった。

「大学で美学芸術学なんぞを卒業したやつなどを採用したい会社はそうそうなく、ボクは学生時代からアルバイトしていた乃村工藝社へ入社しました」

デパートの店内装飾やショーウインドーのディスプレーなどをやらされたものの、自伝では《面白くなくて給料は安かった》と述懐している。

「ただ、国際見本市は面白かったですよ。フランスの展示を任されたんです。担当のフランス人に予算を聞かれたので、多めに吹っかけたら、OKしちゃって。

営業部長に相談したら『さすがに取りすぎだ。お土産にして還元しろ』と言われ、10万円を入れたご祝儀袋を渡したら、向こうもびっくりしてましたね(笑)」

■江戸川乱歩に認められ、商業誌デビュー

筒井さんは役者をあきらめて小説家への夢を抱き始めた。星新一氏のデビューや『S-Fマガジン』の創刊に刺激を受けたのだった。

「自然科学博物館長だった父と弟3人とで、同人誌を作りました。誌名は『NULL』。会社をサボって喫茶店で原稿を書いて、勤め先と取引のある印刷会社に給料3カ月分を支払って製本しました」

原価360円を一冊100円で売ったのだから、採算は度外視。誰かに注目されるのが狙いだった。もくろみどおり、ある日、とんでもない作家から手紙が届いた。

「江戸川乱歩さんからでした。後日、上京して大豪邸にも行きました。背の高い巨大な椅子を見ては、“これが人間椅子か”などと思ったりしたものです。乱歩さんは白い浴衣を着て出てこられました。なぜか片方の目を手のひらで押さえながら出てこられた。『長篇を書きなさい』とアドバイスされました」

その後、『NULL』の作品が商業誌に転載されるなど、作家への足がかりを得て、乃村工藝社を退職。若手作家としての修業を始めたころ、頭を悩ませていたのがお見合いだった。

「おふくろは、ボクが自慢なんですよ。ボクを手放したくないくせに、あちこちで自慢をして、見合い話を持ってくる。『行かない』と言うと怒るから、お見合いはするのですが、小説で身を立てることで頭がいっぱいで、結婚なんて考えていなかった」

30回ほどのお見合いを経て、妻となる光子さんに出会った。昼間、誰も来ない時間のレストランを貸りてお見合いをしたが、光子さんは始終ぶすっとしていた。

光子さんの実家は神戸市垂水区で牧場を営む豪農。初めてのお見合いだったという。光子さんの両親は、娘の相手に売れないSF作家はふさわしくないと思い、仲人さんに断りの電話を入れようとした。光子さんが振り返る。

「断らないでと、泣いて止めたんです。実業家や医師よりも、作家のほうが楽しそうという思いもありましたし、何より、東京に行きたかったんです」

お見合いのときには無愛想だった光子さんだが、筒井さんが改めて実家にあいさつに行ったときは和服で着飾り、笑顔が美しかった。

「しかも、持参金300万円もいただき、助かりました」(筒井さん)

結婚式では、小松左京氏が雇われ仲人を務め、手塚治虫氏などが列席。祝福ムードのなか、不機嫌だったのが、筒井さんの母親だった。

「ボクが離れていくのが嫌だったみたいで『本当にあんなのでいいのか?』と光子に言うんですよ」

新婚旅行から帰ると、その足で、光子さんが憧れた東京暮らしをするために原宿の転居先に向かった。

「ビルの4階の狭い部屋でしたが、いつもどなたかがいらっしゃるんです」と光子さんが言う。

「おうい」と声が聞こえて下の道路を見ると、遊びに来た小松左京氏と星新一氏が並んで手を振る姿があった。日本にSFという新ジャンルを築こうという仲間と、刺激を与え合った。

結婚後まもなく短篇集『東海道戦争』を出版し、続く長篇『48億の妄想』で自分の書き方を見つける。作家の生島治郎氏からは「あなたは叩けば叩くほど走る馬です」と激励された。

書くほどに小説は売れ、一躍人気作家の仲間入りを果たした。

 

【後編】筒井康隆(92)長男が51歳で急死、寝たきり危機で「作家として終わった人間」と吐露も…再び老人ホームで小説を書き続ける“原動力”

サラリーマン生活を経て、商業作家となった筒井康隆さん(92)。光子さん(82)との結婚直後に上京し、小松左京氏と星新一氏などの仲間と切磋琢磨しながら、人気作家になっていった。本人が語る文豪の半生と現在。

文学界を勢いよく駆け上がり始めたころ、息子の伸輔さんに恵まれた。光子さんが振り返る。

「じつは最初の妊娠のとき、逆子で、臍の緒が首に絡んで死産になってしまったんです。有名な病院で診てもらっていて、まさかそんなことがあるなんて思わなかったもので、すごくショックを受けて……。伸輔のときも逆子だったから、毎日、逆子を直す体位をしていました」(光子さん)

死産を乗り越えた先の子供だったため、一層愛おしく感じた。筒井さんは生島氏にわざわざ電話して「なんでこんなにかわいいんだろう」と尋ねると、「そりゃあ、生き物だからね」と答えたという。

「よく知っている料理店なんかにね、伸輔を昼間に連れていくんですよ。誰もいない大広間の席に2人でいると、伸輔があちこちのテーブルのつまようじをばら撒いて、困ったんです。そんなのも楽しい思い出ですね」(筒井さん)

ヒット作に恵まれ、光子さんの実家が提供してくれた土地に家を建て、家族で神戸市垂水区に転居。東京との2拠点生活も始まった。

■小説の挿絵を描いてくれた最愛の息子の突然の死

「幼いころから伸輔は絵を描くのが大好きで、放っておけばいつまででも描いていました。神戸のほうでは美術大学がなくて、情報も少ない。1浪してから、東京の武蔵野美術大学に入学したんです」(光子さん)

画家も小説家同様、成功できるのは一握りの者だけ。それでも、夫婦で伸輔さんの夢を応援した。

「ボクが稼いでいますからね。伸輔には好きなことをしてほしかった。稼げなくたって、元気でさえいれば、それで十分ですから」

伸輔さんと大学の同級生で、その後に結婚した智子さんが語る。

「大学時代から、義父(筒井さん)と夫は普通の親子というよりも、大人同士という感じでした。父と話すのに、少し改まった感じなんですね。でも、大学時代から親子仲はよくて、義父母が東京にいるときは、高級レストランで私までごちそうになりました」

伸輔さんは蜜蝋画なども手がける、現代美術作家として活躍した。だが文豪として誰もが知る“筒井康隆の息子”という肩書に苦しむこともあったようだ。

「意地があったんでしょう。義父から『一緒に仕事をしよう』と言われても生返事でしたし、編集の方から『文芸誌の表紙をお願いします』と依頼されても、『理由はないですが、嫌です』と断り続けていたんです」(智子さん)

だが、画家としての自信を深めていくなかで、伸輔さんにも心境の変化があったようだ。2012年、初めて父の作品の仕事を受けたのだ。

「もちろん、ボクから提案したのですが、朝日新聞に掲載した連載小説『聖痕』の挿絵を伸輔が描いてくれることになって。そりゃあうれしかったですよ」(筒井さん)

精緻な蜜蝋画を1枚描くには、多大な作業量を要するという。

「連載にはモノクロもあるし、カラーもあります。モノクロのときに蜜蝋画はもったいないからペン画でいいと言ったのに、伸輔は蜜蝋画にこだわりました」

けっして手を抜かなかったのは、伸輔さんの意地だったのかもしれない。息子との仕事もかない、孫にも恵まれた。すべてが順調に思えた2019年ごろ、伸輔さんの体調に異変が現れた。

「最初は食べ物がのみ込みにくい症状だったようです。それを伸輔はインターネットで調べて、勝手に逆流性食道炎だと判断してしまったんですね」

病院に行ったときには、進行した食道がんが見つかった。智子さんはこう振り返る。

「私が電話で伝えたところ、義父は冷静で『わかった、経過を教えてくれ』とだけ言っていました。

その後、義母と電話で話すときも、義母が夫の病状を細かく聞こうとすると、電話の奥から『根掘り葉掘り聞くな!』という義父の声が聞こえました」

筒井さんもこう振り返る。

「光子とは、なぜか伸輔の病気の話をしないようにしていましたね。大したことがないと、思い込みたかったのかもしれません……」

伸輔さんは抗がん剤治療で入退院を繰り返しながらも、絶望せず、個展や画集の準備に打ち込んだ。

しかし、がん発覚から1年後の2020年2月、自宅で突然吐血。都内の病院に救急搬送されたが意識は戻らず、51歳でこの世を去った。知らせを受けた筒井さんは、光子さんとともに病院に向かったが、最期には間に合わなかった。

「伸輔の夢はよく見るんです。あれっ、こいつ、生きているんじゃないかと、思うときもあります」

一方、光子さんが泣いたのを見たのは一度だけ。筒井さんは“強い女だ”と、夢に出てくる伸輔さんに語りかけたという。そんな夢でのやりとりを描いた短篇「川のほとり」を発表し、最愛の息子を作品として残した。

「“なんで51歳で連れていきやがったのか”という、何かに対する復讐の気持ちが湧き、“だったら代わりにオレが長生きしてやるぞ”と思う原動力にもなりました」

だが、筒井さん自身も、作家生活の危機に見舞われる。

「2024年4月、頭痛がひどくて薬を飲んだんです。説明書きには“1日3錠”とあるからいっぺんに3錠飲んでも大丈夫だろうと思ってしまったんです。そうしたら翌朝、起きたときにふらふらして、転倒してしまったんです」

頸椎を損傷し麻痺が残ったことで、一時は寝たきりに。このときばかりは弱気になっていたと、智子さんが振り返る。

「病院でも、担当医に『ボクはもう、作家として終わった人間ですから』とこぼすほどでした。何も書きたくないし、読みたくないという毎日でした」

自宅では、トイレに行くにも光子さんと智子さんの介助が必要になったため、家族と離れ、約2カ月、リハビリ病院に入院した。

願いは光子さんとふたたび暮らすことだった。

「妻のいない生活は寂しかったですね。光子は同じことを何度も言うので怒ってしまったりするんですが、やっぱり腹を立てても愛しているんです」

夫婦で入れる有料老人ホームを探し、現在の住まいである神戸市の住宅型有料老人ホームを見つけた。自宅と比べれば手狭になるため、別々の部屋を契約することも提案されたが、筒井さんは「絶対に嫌や」と一つの部屋にこだわった。

「自宅だと、片付けや掃除などいっぱいやることはありますが、ここではホテルのようなサービスで家事をしなくていいから、小さい空間に妻と2人きりの時間が多くなるんです。だからぶつかり合いはしょっちゅう。いや、毎日ありますよ。でも結婚してるんだから、それに耐えなきゃいかんですよね」

作家として終わった人間。そう嘆いていた筒井さんだが、妻との穏やかな生活を送るうちに、自分の内で創作意欲がむくむくと湧いてくるのに気づいた。

■90代で新ジャンルに挑戦

「たばこでも吸いに行きましょう」

そう言うと、筒井さんは、車いすに乗ったまま、両足を交互に動かし、喫煙室まで器用に自走した。大人3人ほどが入れる部屋で、おいしそうに煙を吸い始めた。

「住み心地はいいですよ。ホテルにいるような感じ。ただ規則正しくて、7時30分前に起きて、着替えさせられて、すぐに朝食です。食後は十何錠もの薬を飲むからでしょうか、10時くらいに眠くなるんです。昼飯の時間ぎりぎりまで寝ていることもあります」

昼食、夕食も決まった時間の規則正しい生活。夜10時には睡眠薬を飲むため、寝てしまうという。

「もうお酒もめったに飲みませんし、たばこを吸う以外は健康的な毎日です」

日課は映画鑑賞だ。

「作品によっては光子と一緒に見ますが、基本的には昔の名画が中心になります。いまだに映画を見ると、小説のヒントになることもあるんですね」

そう、筒井さんは今、精力的に小説を書き続けている。

「初めてハードボイルドものに挑戦しています。探偵ものですね」

ミステリアスで、ニヒルな探偵・犬丸邦彦が、さまざまな事件を解決していく新シリーズは、今年すでに3作品が『文學界』で発表されている。

「この老人施設の入居者で、現役で働いているのはボク一人くらいなものですよ。年内にも文春から単行本を出す予定です。

付き合いのある新潮社からも出したい長篇があって、書き始めているんです」

取材時にそう語っていた長篇「ノスタルジア・ゾーン」は『新潮』10月号にすでに掲載されている。

8月には転倒して以来、初めて東京にも行くことができた。「電動車いすも購入して、乗り方の練習もしたんですよ」

生活を支えるのは、月1回東京から来る義娘の智子さんだ。「両親の東京と神戸の家の管理があるし、両親が行きつけだった垂水のおすし屋さんなどのテイクアウト弁当も、持っていってあげたいですからね」(智子さん)

夫を亡くした今も、義父母に尽くしてくれる。その理由を筒井さんがブラックジョークで返す。「まあ、ボクには10億円くらい遺産がありますからね」

すかさず光子さんが「そんなにないでしょ」とフォローして、軽妙な夫婦の会話が生まれる。

息子の分まで、長く、幸せな夫婦の時間を生きている──。

(取材・文:小野建史)

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