(大学受験数学に限らず)才能と努力について

今日の日本シリーズ第6戦はいやな予感しかしないのでさっさと寝ようと思っている。先に日頃感じていたことを記す。

こんな文章をどこかで読んだ記憶がある。以来、私の芯に息づいている。
人生の最期になって神の前に立つとき、ひとかけの才能も残っておらず、こう言えるといいのです「あなたからいただいたものは全て使い果たしました」と

人生の時間は限られているので、己に合わないこと(向いてないこと、直球で言うと才能のないこと)に時間を費やすべきではない。
受験で言うと試験時間は限られているので、捨て問に取り組んではいけない。それは普段の自学自習の時間にも言える。解答解説を読んで理解できないなら(この行の式がわからない、ならまだしも)それに向き合ってる時間は無駄だと思った方がよい。

現状のその人の能力からしてその問題に時間を割いてはいけない、という問題を質問にくる生徒が多い。丁寧に解説してあげる方が生徒にとっての満足度や講師に対する評価は高くなるには違いないが、その生徒はその問題にかけた時間だけ損をし、それを復習する時間の分、無駄になって合格から遠ざかる。仮にその類題が入試本番出題されたとしても、その生徒の実力では復習したところで入試本番の問題が解けるようにはならない。

私は少なくとも教育に希望を抱いた人間の一人であることを理解した上で聞いてほしいのだが、残念ながら努力では生まれつきの才能にはかなわない。ある分野において才能がある人が、そこに努力を重ねてようやく花開く。努力の効果を美化していいのは、ある競争において才能がある人間同士が競ったときのみ

受験業界で私が嫌いな風潮の一つに「自分はとんでもなく努力したから東大に合格した」「とんでもなく努力したから半年で偏差値35から75まで上がった」「僕がやったように努力すれば君にもできる」「君の成績が上がらないのはまだ君の努力が足りないからだ」というのがある。

受験業界は努力の効果、教育の効果を過大評価しすぎているせいで、その人が限界の努力をしているにも関わらず、偏差値50という数値だけ見て、努力が足りないと決めつけたり、模試で全国1位の己は誰よりも努力したんだと他人に努力の凄さを誇示したりする。

ただただ生まれつき勉強という分野の才能が運よく備わっていただけ、だと私は思う。

勉強の才能なんてなくてもいい。才能がないなら、その分野で本気で勝負してはダメ、人生の時間を費やしてはダメ、捨て問に試験時間を使ってはダメだと言いたい。

運のいいことに、転職が当たり前、年功序列も消えて能力主義となり、学歴主義はどんどん消えていっており、高学歴を目指す価値は薄れてきている。

多種多様な仕事が存在する世の中で、己の強みを見つけてそれに全集中すればいい時代になった。己の埋もれた才能を探す作業も努力だ。そこに貴重な人生の時間を使うべきだ。

ちなみにもちろん僕自身は己の能力を最大限に活かすことができるのが、入試数学の解答解説を作成することであると判断して本業以外はそこに全振りしている。


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