老後の同窓会はやめておけ

と書くと角が立つけんど、うちゃもう行かん。行ってよう分かったけん。
会場に入った瞬間の空気。
昔話しよる“ふり”しもって、視線は時計とブランドと肩書にすべっていく。
「最近どう?」の一言に、収入と家と子の進路暗算する沈黙が混ざる。
笑いよる。けど、笑うとらん。
拍手と乾杯の音が大きゅうなるほど、心は遠ざかる。
誰ぞが言う。「いやあ、がんばってきたわい」。
誰ぞが続ける。「ワシも」。数字が踊る。
“ほんに幸せな人は説明せん”という言葉が脳裏かすめる。
やけど説明は続く。
昔の二人称は「お前」やったのに、今は「先生」「社長」「○○くんのパパ」。
呼び名ひとつで距離が数十年ぶんひらく。
酒が足される。さらに足される。
「せっかくやけん」「年にいっぺんだし」。
断ると浮く。飲むと空く。
テンションが上がるほど、会話は浅うなる。
歌が始まる。ハモリも外れる。
ほんでも誰も帰らん。置いていかれるのがおとろしいけん。
気づいたら、楽しいふりと元気なふりの競争になっとった。
ふっと横見る。
かつては、アイス半分こで大笑いできた相手。
今は、話題探す沈黙の相手。
「覚えとる?」と問うたら、「あったっけ」と笑う。
思い出は、みんなのなかでは“あったような気がする絵”になっとる。
額縁から取り出せん。中に入り直せん。
写真撮る。
その一枚の“ええね”で、空白の何十年埋めたつもりになる。
スタンプが流れる。「また会おう」。
やけど次の“また”までの一年、互いの生活は交わらん。
それが現実や。
「続いとる友情」より「保存された名簿」のほうが強い。
老いは、孤独自然にする。
昔は孤独がおとろしゅうて、群れに入って誤魔化した。
今は分かる。
孤独は欠陥じゃのうて“標準設定”。
無理に群れると、心がすり減る。
輪の真ん中におっても、独りになる。
同級生たちは、もう別の世界の住人や。
地元で守ってきた人。遠うで闘うてきた人。
すれ違いは、優劣じゃない。ただの分岐や。
なのに同窓会は、分岐採点表にしてしまう。
「偉い」「すごい」「まだまだ」。
たぶん誰も点つけとうないのに、空気が勝手に採点する。
帰り道、夜風が痛かった。
楽しかった“はず”の時間のあとに来る、あの疲労。
そりゃ加齢じゃない。
過去現在の器に無理やり注いだ反動や。
やけんうちゃやめる。
過去好かんようになったけんじゃない。
過去大切にしたいけん、だ。
額縁の中の絵は、遠うから見ると一番けっこい。
触ると色が落ちる。
無理に蘇生させん。心の棚に静かにしまう。
老後は、量より質。
片手で数えるほどの人と、ゆっくり飯食う。
“説明”のいらん人だけ残す。
ほんで十分や。
写真は減っても、ため息も減る。
同窓会に行く人止めはせん。
ただ、行くなら覚悟。
比較の匂い、酒のノイズ、過去の残像。
ほんでも笑えるなら行ったらええ。
うちゃ行かん。
静かな夜に自分の茶淹れる。
「また会おう」は言わん。
会いたい人には会いに行く。
そのほうが、よっぽど“再会”だ思うけん。

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