2014年、84歳で亡くなった高倉健は40億円の財産を遺した。子供のいなかった彼は、その全財産を家政婦に残し、実の妹には一円も渡さなかった。妹が家政婦に遺産を要求すると、家政婦は「これは私が当然受け取るべきもので、他の人には関係ありません」と答えたという。
高倉健は、あの時代の中国人なら誰もが知る日本の俳優だった。中国に初めて本格的に紹介された日本映画『君よ、憤怒の河を渉れ』(中国題:追捕)で一躍有名となり、冷徹な風貌と強い眼差しは当時の“国民的男神”となり、映画監督の張芸謀が「最も共演したかった俳優」と語る存在でもあった。
高倉健が25歳の時、撮影現場で歌手の江利チエミと出会い、役作りの過程で恋に落ち、すぐに結婚した。結婚から3年後、江利チエミが妊娠したとき、二人は大喜びした。しかし彼女は重い高血圧を患っており、出産は命の危険を伴うため、やむなく中絶を選択した。この出来事がきっかけで、二人の関係にわだかまりが生まれた。結婚から12年後、江利チエミは離婚を選んだ。
その後、高倉健が香港で映画撮影中に、小田貴(当時32歳)と出会う。65歳だった高倉健と小田貴はすぐに心を通わせたが、世間の目を気にし、小田貴は「家政婦」として高倉健の自宅に住み込む形を取った。小田貴は高倉健の身の回りの世話を献身的に行い、家事もきちんと切り盛りした。二人は正式な結婚はしなかったが、小田貴の心中では、すでに彼の妻という自覚があった。
こうして二人は17年間、共に暮らした。高倉健が重病で手術を受けることになったとき、病院からは家族の同意書へのサインが求められた。高倉健は普から妹や甥との交流がほとんどなく、小田貴にサインを頼んだ。しかし病院の規則で、手術の同意書は「家族」のサインが必要だったため、高倉健は小田貴に「妻」という肩書きを与える代わりに「養女」として戸籍に入れ、サインをさせた。
最期の日々、小田貴は寝る間も惜しんで高倉健に寄り添い看取った。そのため高倉健は遺言を残し、40億円の財産のすべてを小田貴に相続させると記した。「長年、私の面倒を見てくれた人に遺産を残したい」というのが彼の意思だった。
高倉健の死後、遺産は全て小田貴のものとなった。これを知った妹が遺産を要求すると、小田貴は「私は17年間も彼に寄り添い、妻であり娘でもありました。これは私が受け取るべきものです。それに、あなた方はこれまでどこにいたのですか」と返した。妹は激怒したが反論できず、最終的に遺産争いの裁判を起こしたものの、一円も取り戻すことはできなかった。
高倉健の判断は間違っていない。誰が自分を大切に世話してくれたか、誰が真心を込めて接してくれたかを見極め、その人に財産を残すというのは自然なことだ。小田貴は彼の人生の最後を支え、最も大切な存在となった。だからこそ、彼女に財産を残すのはやむを得ない選択だった。
真心はお金で測れるものではない。どれだけの富を持っていても、本当に大切なのは、人生の最後まで寄り添ってくれる人がいるかどうかなのだ。

