日本の精神医療の残酷さ…とある女性の独白

私が関わる方たちにはこんな目にあってほしくない。

2018年6月、私は精神病院に入院した。
鬱病と診断されたのは、2013年春だった。その年の2月に突然の末期膵臓癌で余命3ヶ月の母親を自宅介護の末に看取り、精神的に壊れてしまったことが発端である。

癌告知後、病室で母は私に言った。
「癌になったのはお父さんから受けたストレスのせいよ」

長年家庭不和で育って来た私は、家庭を破壊して来た張本人は父だと思い込まされていたため、母を看取った後、父を呪い続けた。

「お父さんのせいでこんなことになったんだ」

母を看取る直前に結婚してくれた夫と暮らすため、実家に父を置き去りにし、父から逃げ、新婚生活から人生やり直そうと新天地へ越した。

しかし、新婚生活は前途多難だった。
父への憎悪は半端なく、毎日のように「おまえのせいだー!」と叫んで夜中に起きるような生活だった。

夫に勧められて心療内科に行った。
話しただけで、医師は鬱病と診断し、薬を処方した。

そこから、投薬治療から抜け出すことは難しかった。一時期の気分の落ち込みからは、数ヶ月後には脱していた。それでも通院を課され続けた。

2年くらい経過し、あの頃より随分良くなったと自覚していたので通院をやめ、薬もやめた。

近所で接客の仕事を始めた。
妊娠し、出産したのが2016年だった。

頼れる親族はいなかった。
夫の義父母に助けてもらった。

新婚時の駅近アパートから、自然の多い、少し不便な場所へ越していた。
駅に出るにも、新生児から2歳までの娘を連れて行くには大変だった。本数の少ないバスに乗り、ヒトケの多い街へ出た。

一日中、赤子の娘に付きっきりで、夜中も授乳し、睡眠はろくにとれなかった。
娘を抱っこして散歩しに近所を歩いたりして、外の空気を吸って気分転換をした。

自然が好きだった私は、この地域の自然がだんだんと怖くなって行った。
鬱蒼としていて、孤独感が増して行ったのだ。

娘が1歳になる前には、周りのママさん達は仕事復帰のため、保育園探しに奔走し始めた。私はパートの接客仕事を辞めていた。

私の孤独感はますます酷くなって行った。社会から取り残されるような焦燥感が半端なくなって行った。

それでも、娘は日に日に成長して行き、娘の命を守ることを最優先に生きた。

ジッとしていられない症状が出始め、ネットで調べ、再び別の心療内科に行った。

産後鬱と診断された。

地域の窓口に相談したら、住まい近隣の精神病院を勧められた。そこへ通院しながら、家事育児をすることになった。

夫と義父母とは破綻し始めていた。

最終的に、私は境界型人格障害というレッテルを貼られ、虐待母と妄想され、通院していた精神病院に2ヶ月の強制入院を余儀なくされた。

車で夫に連れられ、肉体的にも精神的にも疲労困憊し、車中の眠りから目覚めた私は、気付いたら主治医と夫と診察室にいた。

「どうしますか?入院しますかね?」

私以外の人間が入院を勧めるオーラを全開にした空気になっていた。

家庭裁判所で離婚調停不成立が決まった日だった。

私は心の中で悲鳴を上げていた。
「もう疲れたよ。
一日中、何もしないでゆっくり休みたいよ。」

数日で退院するつもりで、私は入院することにした。

元気になって2歳の娘の元に帰るのだと誓って、書類にサインした。

それが絶望へ突き落とされることになるとは、思いもしなかった。

相部屋の病室で翌朝目覚め、看護師から渡された入院計画書には「医療保護入院、2ヶ月」と書かれていた。

医療保護入院とは、患者の意志が尊重される任意入院とは違い、医師の指示通りに従わなければならない強制度が高い。退院は患者家族が認めない限りは出来ない。

昨日まで娘と共に暮らしていた日々が、突然奪われた。

何度も何度も病院側に退院希望を訴えても、閉鎖病棟から出ることは許されなかった。

家族、つまり夫から退院許可が出ないからだった。

不安を抱えながら、施錠された空間で、耐えて耐えて、2ヶ月を過ごした。

毎日のように、願った。
「早く娘に会いたい」

病棟の患者は様々な病気を抱えていた。

知的障害の患者が複数いた。
40年近く入院している知的障害を抱えた男性は、家族の意向で病棟に暮らしていた。
アルコール依存症の男性は入退院を繰り返していた。
いつも独り言を言って廊下を歩く女性がいた。
音楽療法士の夢破れ、離婚して精神を病んだ女性から嫉妬され、よく分からない虐めを受けた。

見たことのない世界を体験した。

仲良くなった患者も、独房に強制的に押し込められた。
独房は、トイレがポツンと置かれた4畳半ほどの部屋だった。食事だけが届けられる。ここへ入ったら暫くは出られない。
少し暴れた言動を見れば、病院側はベッドに患者を縛り付け、身体拘束をした。

せめてもの楽しみが調理室で作られる日に3度の食事だった。
決して美味しいものではない。
殆どは病室のベッドでゴロゴロするだけだから、私はブクブクと太って行った。

日中は希望者のみ、作業療法、映画上映鑑賞などが出来、その時だけ鍵が開けられ集団で閉鎖病棟から出ることが出来た。
仲良くなった女性の患者から、作業療法士の男性からセクハラを受けたと、後に聞かされた。

風呂は週2回か3回だった。
順番を決め、係に呼び出され、時間内に入った。

どこかの強制収容所なのか…?
と、今でも思い返す。

こんな所に収容されて、回復なんて出来るわけがないだろう。
体験した私のこの意見が変わることは、今後も絶対にない。

「ナホちゃんはどう見ても精神病じゃないのに、なんでこんな所に居るの?」
と、何度も患者達に言われていた。

なんでだろう……?

ようやく退院許可が下りたのは、入院から2ヶ月を目前にした時だった。

しかし、退院を許可した夫の条件は「元の住まいには戻って来るな」だった。

何もかもを失い、不安と絶望に打ちひしがれた私の前に現れたのが、あの時絶縁した父だった。

家庭を崩壊させた張本人だと呪い続けて来た父が、「俺の一人暮らしの団地に来い!」と言って、私を救済した。

そこから2年半、父との二人暮らしの末、私は父と和解した。
その父も昨年に突然亡くなった。

父が家庭を崩壊させた張本人だったとは、私は今は思っていない。

娘の親権を取る為に、何度も弁護士相談に行ったが、父がついて来てくれたこともあった。

長くなるから書かないが、晩年の父の姿を見て来た私は、父に家庭崩壊の全責任があったとは思えない根拠はいろいろある。

日本の親権は、お母さんが高下駄を履いている状況だから心配しなくていいと弁護士から聞いていたが、

精神科医療保護入院(強制入院)という手段を夫側が妻に行使すれば、親権は父親に圧倒的に有利になる。

何も知らなかった私は、この世の不条理を目一杯、見せつけられた。

娘は10歳になった。
離れて暮らしていても、母子の絆は強く結ばれていると感じる。

それは、毎週のように面会できるようにと計らってくれ、母子の絆を理解してくれた元義父と、亡き父が元義父との交流を続けてくれたこと、元義父もそれに応えてくれたことが根底にある。

そして、私自身が、元義父と亡き父の気持ちに応えようと、前向きに生きて来れたからだし、元夫に対する感謝も懺悔もあるからだ。
人生の岐路に至っては、自分はいつだって未熟者である。

なぜこのタイミングでこの投稿をしたのかは、7/26に相模原障害者殺傷事件から丸10年を迎えるからだ。

自分の経験を通して、様々に考えていただきたい。

家族
親子
夫婦
介護
育児
医療
精神疾患
強制入院
収容所
隔離政策
優生思想
生産性
人権
共生社会
戦後日本の病理
生きるとは、、、。

イタリアは精神病院を廃止した。
日本の医療保護入院は国連から廃止勧告を受け続けている。

「誰もが生きやすい社会」を一人一人が考え、行動して行けば、必ず変わって行けると信じたい。

社会が本当の愛を達成するには、多くの人の本当の愛を集め、国政に届けることが不可欠だろう。

本当の愛とは、自分の周囲をよく見渡し、悲鳴を拾い上げる力じゃないのかな。
よくよく見渡すと、本当は知らない世界だらけで、本当はみんな悲鳴を上げているのだから。

親の不仲で育ったから人格障害者と思い込まれ、親権まで奪われた私は、すべての憎しみを払拭し、子供達が幸せに生きられる社会を、真剣に問うている。

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